二つの神社からなる桑名の総鎮守 桑名宗社(俗称:春日神社)

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日本一やかましい祭 石取祭

石取祭は毎年8月第1日曜日を本楽、前日を試楽として行われています。
試楽日は午前0時に神前神楽太鼓を合図に各町内の祭車が一斉に鉦・太鼓を叩き出しますが、この叩出の瞬間その光景はまさに勇壮無比なものであり、市民が1年間待ち焦がれていた祭の始まりです。本楽日は午前二時の叩出を経て、いよいよ夕刻からは祭の最高潮、春日神社(桑名宗社)への渡祭が始まります。叩出から2日間にわたる勇壮無比な祭、何もかもいっぺんに吹き飛んでしまうような御祭であり、天下の奇祭「日本一やかましい祭」と呼ばれるに相応しいものであります。

令和7年の日程

8月1日(金)叩き出し

8月2日(土)試楽

8月3日(日)本楽

桑名宗社(春日神社)前で行われる渡祭の様子

石取祭の歴史

石取御神事は、桑名神社の大祭前期桑名祭(比与利祭)の中の一神事であったのが、宝暦年間(1750年代)に独立した御神事である。
比与利というのは、この祭を行うために桑名市南郊の町屋川へ行き、楔祓し石を運ぶ途中ヒョウリヒョウリと笛を吹き謡ったのから起こって遂にヒヨリ祭という様になったのであろう。この名の起源については、他に説があって表裏の意とも、日和の意とも、干下りとも、又は伊勢物語に右近の馬場のヒヲリの日とあるヒヲリとも種々あって一定しない。

比与利祭は、石取神事・流鏑馬(やぶさめ)神事・ねり物神事などを合わせたものであり、その起源については3つの説があります。

1

石占(いしうら)の説

石によって神意を占う習俗で石を持ってみて、重く感じたり軽く感ずるのにより神意を判断したり、石を投げて落ちる状態により、これを占う。

2

社地修理の説

神社の地は、海川が近く地が低いので、納涼のはじめに氏子のものが町屋川より石を拾って来て社地に敷き施したが、七夕の行事と合してだんだん盛んになった。

3

流鏑馬の馬場修理の説

比与利祭の流鏑馬神事を行うので、その馬場を修理するために町屋川より石を運んだのが始まりである。

以上の諸説があるが、氏子が町屋川で禊して洗浄の栗石を運んで社地に敷くのは単なる低湿の社地や馬場を修理する為のみではなく、私たちの祖先は石を「生きて生長するもの」と考え、永遠性を認めたので、神霊の憑依(うつる)すべきものとの信仰を持っていた。

桑名の氏人の祖先を祭るために祭場を設け神を迎える準備をするのが石取祭である。

即ち、比与利祭を行う為に石取をして、石取をしてはじめて比与利祭を行い得ると言える。また、石取御神事本楽日に先立ち、各町では町屋川へ行き、清流に禊して拾い採った清浄な栗石を奉納し、試楽日午前十時より献石神楽が行われる。
この石は数百年来奉納しているが、その数が今に増えないのは神異の一として世に宣伝するところである。

境内を整列して歩く石取祭の様子
石取祭で太鼓をたたく男性

石取祭は、特有の三輪祭車の上部に山形十二張の提灯を飾り(1に1年2カ月を表すとも伝えられる。また人形・屋形の形式もある。)後部には鉦鼓を取りつけて囃す天下の奇祭で、江戸時代初期の慶長年間にすでに石取の記録が見られる。

現在では八月第一日曜本楽、前日試楽の日程で全市街挙げて行われる。この祭の特徴はその独特な囃子にあり径二~三尺の大太鼓1個と径一尺三寸位の鉦四~六個で囃す。五ツ拍子・ 七ツ拍子に大別され、老若男女を問わず打ち興ずる光景はまさに勇壮無比、血湧き肉躍るの感がある。

試楽日は午前0時の春日神社宮司の叩く神楽太鼓を合図に一斉に叩出し、 夕刻より各組内を曳廻す。また午前10時より各町役員が神社拝殿参列して町屋川より採石した栗石を神前に奉納し、御神楽を奏でる献石神楽が斎行される。

本楽日は午前2時の叩出しを経て、午後になると各町とも整列定位置へ祭車を練込み、いよいよ夕刻より祭の最高潮、渡祭が始まる。整列路は南北隔年、午後4時半に花車(一番車)が曳出され、6時半より渡祭。

御神火が順次受け継がれ、優美絢爛の祭車が灯火に夜空を焦がしつつ蜿蜒半里に互り行進する状は宛も一幅の名画である。渡祭後は第一組内を廻り田町交差点にて午後10時頃別れ(解散)となる。

春日神社の前で整列する祭車
装飾が目立つ石取祭の祭車

祭車は当初小さな荷車のようなものに注連縄を張り笹を立てて石を運んでいた物が、やがて美麗な三輪祭車へと発展し、現在では各祭車とも彫刻・幕・金具・塗りと、趣向を凝らし、妍美を競い、全祭車四十三台の中には百数十年を経たもの、高村光雲など古今の一流作者に意匠されたもの等、芸術的価値も高く、また永く庶民の文化遺産として受け継がれている。

渡祭順は、石取祭保存会の公式ホームページよりご確認いただけます。