執筆者西羽晃 氏
木像徳川家康座像と千姫
桑名宗社(春日神社)に所有されている「木像徳川家康座像 附 東照宮木像据置一件」は桑名市指定文化財となっている。元和3(1617)年に千姫が春日神社の境内に東照宮を勧請し、この木像を祀ったと伝えられる。東照宮は元禄14(1701)年の火災で焼失したが木像は焼けなかったので、以後は神宮寺に祀られてきた。神宮寺は春日神社境内にあったが、明治3(1870)年の神仏分離で神宮寺が廃止になった時に、春日神社に移管されたのである。
千姫は徳川家康の孫娘であり、幼少の時に豊臣秀頼と結婚したが、大阪城落城の際に救い出されて、江戸へ戻った。その翌年の元和二年に桑名藩主本多忠政の嫡男・忠刻と結婚し、同年九月に桑名城に入った。その時に桑名城の御殿に唐破風の門を造ったと言われる。また十万石の領地を持ってきたと言われる。夫の忠刻は未だ部屋住みの身分であり、舅の忠政が十万石であるから、千姫の力が偉大だったと推測される。
その十万石について、員弁郡治田あると言われたこともあったが、近年の研究では治田ではないとされている。慶長10(1605)年の地図では治田領は「美濃守内儀二千六百石」とある。美濃守とは本多忠政であり、内儀(奥方)は熊姫である。熊姫も徳川家康の孫娘であり、熊姫が亡くなってからは治田領は幕府領となっている。
千姫は桑名に住んだが、元和3年には舅の忠政が姫路へ移封したので、彼女も姫路城へ移った。1年足らずの桑名生活であった。桑名を発つにあたり、大切にしていた徳川家康の木像を春日神宮寺に寄進したのである。
千姫については数々の伝説めいた話が伝わっており、格好の題材として小説に書かれている。私の手元には千姫に関する小説が7冊あるが、うち、2冊は桑名に住んだことを無視して、江戸から直接姫路へ移ったように書いてある。小説と言えども事実を曲げてあるのは残念なことである。