執筆者嶋津宣史 氏
桑名宗社―神宮雅楽始まりの地―
伊勢の神宮に参拝すると、神楽殿から聞こえる雅楽の音色に心洗われる思いが致します。参道の玉砂利の音と相俟って、大変清々しい気持ちになる方が多いのではないでしょうか。神宮では古くから雅楽が奏されていたと思われますが、実は明治時代から始まったものです。
明治4年7月、国家の宗祀に相応しい神宮の姿を目指した「神宮御改正」が断行されました。その内容は多岐にわたりますが、御師制度の廃止ならびに御祓大麻配札の停止が主なものでした。御師の廃止にともなって、御師邸の神楽祈祷が挙行出来なくなりました。遠方からお伊勢参りに来ても、お神楽も上げられない、御札も戴けない等、参宮者は大変困ったようです。そこで翌5年神宮司庁は参宮者の要望に応えるため、雅楽を奏し御饌を供えて祈祷をする神楽殿の建設を、教部省に願い出たのでした。
さて、当時の神宮には、雅楽の演奏ができる職員はいなかったようです。このため雅楽に堪能な旧桑名藩士数名を神宮に雇い入れ、彼らに式部寮伶人について雅楽を習わせることにしました。
桑名藩主の松平家は、寛政の改革で知られる松平定信の系統ですが、定信の父は8代将軍・徳川吉宗の次男、田安宗武です。宗武は雅楽に関心深く『楽曲考』を著しています。定信は宗武の影響を受けて雅楽を好み、笛、笙、鞨鼓、舞を習いました。やがて定信は奥州白河藩主・松平定邦の養子となり、白河藩主となります。寛政3(1791)年には藩校・立教館を設置し、雅楽を正式な教科とし、藩士の子弟に練習させて、城中や神社等で演奏させました。文政6(1823)年定信の子・定永が桑名に転封されると、立教館も桑名に移転され、明治五年に廃校となるまで、雅楽の教習が行われていました。
明治5年10月9日、神宮権禰宜兼中講義・御巫清生が、桑名・春日神社(現・桑名宗社)にて説教の節、旧桑名藩士・加治西岸、小河内九一、吉野勝右衛門、福本伊織等に交渉し、さらに浦田少宮司より、鳥山三重県権参事に正式に交渉して、彼ら4名を神宮に招聘し、祭典課出仕として雅楽教授の任に就かせたのでした。この雅楽に堪能な旧桑名藩士達が、神宮における雅楽の礎を築くことになります。その切掛けとなる交渉が、ここ春日神社で行われたことから、神宮雅楽の歴史が始まったのです。